長岡高の根性野球


平成2年夏、高田工が甲子園へ初出場した。このチームは秋も春も優勝し県内完全制覇をした強豪だった。
その時の島田コーチが長岡高出身(昭和59年卒)で、根性野球を実践し見事に栄冠を勝ち取ったのである。
その長岡高の年史を以前読んだ事がある。平成2年、二宮部長が定年退職をするにあたり発刊された、「私の高校野球15年史-長岡高校野球部第二期黄金時代の記録-」である。
長岡高野球部は昭和41年、弱冠23歳の若さで小千谷高を甲子園に導いた柴山監督が、昭和45年から就任し二宮、柴山のコンビは県内の高校野球界を常にリードするようになる。
昭和51年夏の県大会は優勝候補といわれながら決勝で高田商に敗れ甲子園を逃す。
新チームは秋の県大会で準優勝し、北信越大会で星稜高の小松辰雄投手に七回コールドの完全試合に抑えられ18対0と大恥をかいた。
翌52年、長高野球部に最悪の事件が起きる。柴山監督が3月にスキーで首を骨折し長期入院してしまった。
監督不在となった野球部は非常事態となり、前年主将の三本氏を監督代行に起用する。
青天の霹靂となった野球部は市内リーグも成績振るわず、春季北信越大会も地区予選で伏兵の六日町高に6対5で敗れる。
消沈した野球部に三本氏は苦悩した。だが初の女性マネージャーも誕生し、夏に向けて再起をかけた強化合宿が6月に2週間行われた。早稲田大学からコーチを招き、猛練習が始まる。30分間の個人ノックでは選手達が続々倒れ、水をぶっ掛けられた。
救急車が何度も出動する度、「サイレンを鳴らしてこないでくれ」とお願いすると「救急車は長高野球部の為の乗り物ではない」と二宮部長にクレームがつき、翌日からは父兄の車が救急車の替わりとなったそうだ。
7月上旬、念願の柴山監督がようやく復帰してきた。そして夏の大会が開幕する。
順当に勝ち上がった長岡高は、秋の県大会決勝で5対2で負けいる、名将黒田監督の長岡商と準々決勝で対戦する事になった。
長岡商は新チームとなった秋の大会でスカイブルーのユニフォームに変え、右左のジグザグ打線で春の県大会も優勝し、3度目の甲子園が間違いないとされていた。長岡勢同士の大一番に悠久山球場は超満員となる。
長高は左腕の竹内、長商はエース宮嶋ではなく2年生の広川が先発した。
一回表、長岡高は二死満塁から六番大川のライト前タイムリーで2点を先取。その裏、長岡商も一死二、三塁で四番大矢がタイムリーを放ち1点、二塁ランナーはライトからの好返球で本塁憤死となる。このプレーが長高ナインを勇気づけた。
五回表、長岡高は無死満塁から四番田辺のヒットで2点を追加し、長岡商はエースの右腕宮嶋をリリーフに送る。二死三塁から再び大川のタイムリーが出て5対1と優位に立った。七回裏、長岡商は二死二、三塁で一番高橋がライト前タイムリーを放ち1点を追加、ここで二塁ランナーが帰れなかったのが痛かった。
この高橋選手は持ち前の野球センスで49歳の今も現役バリバリである。本当に頭が下がります。
試合は5対2となり八回表、長岡高の攻撃は二死一、三塁から一番吾妻のタイムリーヒットで6対2と突き放す。
長岡商は八回裏、一死一、二塁で左打ちの宮嶋がレフト線いっぱいに二塁打を放ち、二者生還し6対4と猛追する。
なおも安達にヒットを打たれ一死一、三塁のピンチ。たまらず柴山監督はタイムをとり「初球は必ず見送るから絶対ストライクを投げさせろ」と
捕手の田辺に指示。強攻策の長商は八番星田がファーストゴロに倒れ二死二、三塁で一打同点のチャンス。
9番酒井は2-3からきわどいコースを見送り審判は「ボール」のコール。捕手の田辺は判定に悔しがる。
満塁で一番高橋を迎える最高の場面となった長商は、三塁ランナー宮嶋が押し出しと勘違いしたのだろうかホームに歩いて来てしまう。
三、本間に挟まれタッチアウトとなってしまった。信じられない走塁ミスで宮嶋は座り込んでしまった。
この宮嶋選手は卒業後、三条市の銀行に勤務していた時期があり、私と何度か対決した事がある。一つ年下の彼を、何度か飲みに誘っては、このプレーの真相を聞いたが最後まで黙して語らなかった。
九回表、長岡高は三番の主将佐藤(賢)が二塁打で出塁。この選手は現新潟明訓高佐藤監督の弟さんである。
一死一、二塁と場面は変わり、この試合大当たりの六番大川がライト線に二塁打して7対4となった。
3点差を追う長商は九回裏、一死満塁で柴山監督が恐れている四番大矢を迎えた。竹内投手は9個の四球を出しながらも大矢をサードフライ、五番広川をショートフライに打ち取りゲームセット。伝統の一戦は長岡高が秋の雪辱を果たしたのである。
準決勝は闘将安田監督率いる新発田農に8対6、決勝では柴山監督がかつて甲子園に導いた小千谷高に13対2で大勝し、どん底チームが56年ぶり五回目の甲子園出場となったのである。
年史の中に父兄からの思い出が綴られている。
練習を見学に来た母親に廻りの人が「見ないほうがいいですよ」と言われたそうである。我が子が猛ノックで倒れ、「甲子園へ行きたくないのか」とボールが投げつけられる姿に愕然としたそうである。
一年生の頃、子供に校舎の様子を訪ねたら、「俺達は教室と部室とグランドを往復するだけで、校舎を見学する余裕はない」と言われたそうだ。
子供が長高までの3キロの道のりをリュックを背負って毎日走って通学した事、帰宅の遅い子供に代わってボール縫いをした事、合宿で食事当番をしてたくさんのお母さんと交流した事、毎日神棚に長高必勝祈願した事、夜の10時に帰宅し飯を食べて風呂に入るや眠りこけた子供の姿に勉強しなさいとは可哀想で言えず、退部させようと思った事、娘がマネージャーになり下宿先へ差し入れを持っていっても会えた事がなく、下宿先のおばさんから夕食を食べながら眠っていた事を聞かされた事など、子供たちの頑張った思い出が書かれている。
強くなるには監督も家庭を犠牲にしている。子供が小さければ奥さんの負担は大変だ。
選手、指導者、父兄、地域の皆さんが一体になってこそ、野球部が強くなって行く。
高田工を甲子園に導いた当時の島田コーチも「長岡高校時代の時間とエネルギーは野球に全てを注いでいたという誇り」だと書いている。
その根性野球こそ三条の学校に今迄足りなかったのである。
県央工の鈴木監督は生徒達に全力疾走、精神論、県下一の厳しい練習量を突きつけた。
柴山監督が3度目の甲子園に出場したチームは自分達でお互いの調子を確かめ合い、勝つための野球を考えていたそうだ。エースが「今日の調子は良くないから5点は取られる」とみんなに言っている。それならキャプテンが「あたってる打者につなげて、こことここで6点とろう」と話してる。「選手が監督を超えた時にチームは強くなる」と柴山監督は語った。さあ、県央工は甲子園でどんな野球を見せてくれるか楽しみである。
b0076646_0253718.jpg

MINOLTA α-7700i AFズーム80-200mmF2.8 
1/500秒 オート +0.5補正 フジカラーISO400
撮影日 1990.7.末頃 撮影地 長岡市悠久山球場・高田工13対3新発田農

人気ブログランキングに登録しています。
良かったらここをクリックして下さい。
 
[PR]
by chonger48 | 2008-07-31 23:50 | スポーツ
<< 連帯責任 頑張れ伝統校! >>