カテゴリ:歴史( 56 )

北方文化博物館新潟分館 その2

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古くから伊藤家にあった花台です。1階展示室の玄関前に置いてありました。
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Canon EOS 50D  SIGMA18-250mmF3.5-6.3 DC OS HSM
F11  2秒 ISO500 14:39  曇り時々雨
撮影日 2012.3.24 撮影地 新潟市中央区・北方文化博物館新潟分館

2階の潮音堂という部屋です。日本海の音が聞えるため會津八一が名付けました。
窓の外を焼きこんで露出を調整しましたが、こういう場面は屋内と屋外との露出差が大きいのでアンダーとオーバーの画像を3枚ほど撮影してフォトショップで加工した方が良いと思いました。
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Canon EOS 50D  SIGMA18-250mmF3.5-6.3 DC OS HSM
F14  0.4秒 ISO500 14:30  曇り時々雨
撮影日 2012.3.24 撮影地 新潟市中央区・北方文化博物館新潟分館

外の庭園にある「清行庵」という茶室です。大正末期に建てられました。
入室禁止でなおかつ戸板が全開していませんでした。内蔵ストロボだけでは室内を明るく出来ません。
こんな時に外部ストロボを室内においてワイヤレスで光らせれば綺麗に撮れるんですよね。
(ストロボを持ってこなかったのが失敗でした)
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Canon EOS 50D  SIGMA18-250mmF3.5-6.3 DC OS HSM
F14  1/25秒 ISO500 内蔵ストロボ調光補正-1  14:56  曇り時々雨
撮影日 2012.3.24 撮影地 新潟市中央区・北方文化博物館新潟分館

枯山水の庭の東西に面する2階建の洋館「南浜・秋艸堂」に會津八一は昭和21年から逝去するまでの10年間、住んでいました。
1階が書斎と応接室で2階は寝室でした。現在は展示室になっています。 梅が咲いた時にここから撮影すると良いアングルだと思います。


帰りに「第5回 會津八一の歌を映す 写真コンテスト」の入賞入選作品展を會津八一記念館で見学して来ました。
最高賞の秋艸道人(しゅうそうどうじん)賞に選ばれたのは三条市の新飯田茂雄さんです。
題材となった和歌「天地に われひとりいて 立つごとき このさびしさを 君はほほ笑む」で星空の下にたたずむお地蔵さんを見事な描写で撮影していました。
審査委員長の浅井慎平さんは歌にある「孤独感」が写真にも表れ、「夜空の下の桜と地蔵のロングショットの説得力」をたたえたと寸評しています。
私はまだこのコンテストに一度も応募した事がありません。
今年は八一の歌をじっくり勉強してなんとか出品してみたいと思った写真展でした。
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Canon EOS 50D  SIGMA18-250mmF3.5-6.3 DC OS HSM
F13  1/40秒 ISO250 15:05  曇り時々雨
撮影日 2012.3.24 撮影地 新潟市中央区・北方文化博物館新潟分館


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by chonger48 | 2012-04-02 21:16 | 歴史

北方文化博物館新潟分館

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新潟市で所用があり、用事を済ませた午後から北方文化博物館新潟分館へ行って見ました。
江南区の本館には何度か行った事がありますが分館は初めてだったので場所が良く分からず、辺りをぐるぐる車で廻ってしまいました。(>_<)
新潟分館は、明治末期に六代伊藤文吉が新潟別邸として取得しました。
戦後の昭和21年、文学者の曾津八一が新潟に帰郷し、昭和31年75歳で永眠するまで、ここ新潟分館邸内の洋館で暮らしていました。

3月末まで湊新潟雛人形・町めぐりのイベントが行なわれていました。
こちらで展示された雛人形は明治42年に伊藤家六代文吉の弟、九郎太の長女誕生の折に購入された物です。
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Canon EOS 50D  SIGMA18-250mmF3.5-6.3 DC OS HSM
F16  0.5秒 ISO500 13:47  曇り時々雨
撮影日 2012.3.24 撮影地 新潟市中央区・北方文化博物館新潟分館

曾津八一は若い頃から老子の「道徳経」を好みました。「無」は老子の哲学の原理である「無為自然」からきています。
秋艸道人は曾津八一の雅号です。
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Canon EOS 50D  SIGMA18-250mmF3.5-6.3 DC OS HSM
F11  1.6秒 ISO500 13:53  曇り時々雨
撮影日 2012.3.24 撮影地 新潟市中央区・北方文化博物館新潟分館

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Canon EOS 50D  SIGMA18-250mmF3.5-6.3 DC OS HSM
F8.0  0.4秒 ISO500 14:14  曇り時々雨
撮影日 2012.3.24 撮影地 新潟市中央区・北方文化博物館新潟分館




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by chonger48 | 2012-04-01 20:07 | 歴史

大ヒット上映中

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昨年12月23日に公開された映画『聯合艦隊司令長官 山本五十六 -太平洋戦争70年目の真実-』を見て来た。
上映が始まってから携帯電話に伝言メッセージが3件も入った。急用だったので館外で電話をしているうちに肝心の真珠湾攻撃のシーンを見る事が出来なくなってしまった。(泣)

小学生の頃、 「トラ・トラ・トラ!」(1970年)という映画を見ている。この時に山本五十六を演じたのは山村聰だった。
そして今回の映画を見る前に、レンタルDVDで三船敏郎が演じた 「連合艦隊司令長官 山本五十六」 (1968年)を見ている。
役所広司が演じた山本五十六と見比べるのも映画を楽しむ方法だと思う気がする。
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Canon EOS 50D  SIGMA18-250mmF3.5-6.3 DC OS HSM
F6.3  1/800秒 ISO500 12:39  曇り
撮影日 2011.10.11 撮影地 長岡市・山本記念公園

山本五十六のかつての生家・高野家は昭和20年8月、太平洋戦争末期に米軍による大空襲で焼失したため、今は復元された生家が山本記念公園に残っている。
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Canon EOS 50D  SIGMA18-250mmF3.5-6.3 DC OS HSM
F16  1/50秒 ISO500 12:34  曇り
撮影日 2011.10.11 撮影地 長岡市・山本五十六生家

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Canon EOS 50D  SIGMA18-250mmF3.5-6.3 DC OS HSM
F16  1/5秒 ISO500 12:46  曇り
撮影日 2011.10.11 撮影地 長岡市・山本五十六生家

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Canon EOS 50D  SIGMA18-250mmF3.5-6.3 DC OS HSM
F16  0.8秒 ISO800 12:52  曇り
撮影日 2011.10.11 撮影地 長岡市・山本五十六生家

胸像は、昭和23年霞ヶ浦の湖底から引き揚げられた胸部をブロンズ像に鋳直したものである。
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Canon EOS 50D  SIGMA18-250mmF3.5-6.3 DC OS HSM
F16  0.6秒 ISO800 13:28  曇り
撮影日 2011.10.11 撮影地 長岡市・山本五十六生家

山本五十六記念館にはブーゲンビル島で撃墜された一式陸上攻撃機の左翼部分が展示されている。
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Canon EOS 50D  SIGMA18-250mmF3.5-6.3 DC OS HSM
F13  1/60秒 ISO500 13:55  曇り
撮影日 2011.10.11 撮影地 長岡市・山本五十六記念館

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by chonger48 | 2012-01-07 21:04 | 歴史

五合庵

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五合庵へ3年ぶりに来た。
ここの初代住人は万元和尚といい、戦国時代に比叡山延暦寺で修行を終え、諸国行脚に出て佐渡へ渡ろうとしたが嵐で断念し、国上寺を訪ねて来られた。
しかしそこは本堂も焼け落ちた荒れ寺で、見かねた万元和尚は越後の国を30年かけて托鉢し、その間に五合庵に住んでいた。
時は江戸時代となり良寛さんは18歳で出家してから、諸国を行脚し越後に帰って来た。
47歳の時、五合庵に住んでおられた国上寺の前住職義苗和尚が亡くなり、出家してから30年間永い漂泊の旅からここに安住の地を得る。

「いざここに 我が身は老いん 足びきの 国上の山の 松の下いほ」

生涯寺を持たず、自らの質素な生活を示す事や、格言によって一般民衆のみならず、様々な人々の共感や信頼を得ることになった。
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Canon EOS 7D  EF-S10-22mmF3.5-4.5 USM
F14  1.3秒 ISO400 10:37  曇り時々雨
撮影日 2011.11.12 撮影地 燕市国上・五合庵

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Canon EOS 7D  EF-S10-22mmF3.5-4.5 USM
F16  1/5秒 ISO400 10:04  曇り時々雨
撮影日 2011.11.12 撮影地 燕市国上・五合庵

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Canon EOS 7D  EF-S10-22mmF3.5-4.5 USM
F14  0.4秒 ISO400 10:31  曇り時々雨
撮影日 2011.11.12 撮影地 燕市国上・五合庵

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by chonger48 | 2011-11-20 20:54 | 歴史

国上寺の紅葉

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今年の紅葉は気温が高いため例年に比べると1週間ほど遅いようだ。
自宅から近くて写真が撮れそうな理由から国上寺へ行って見る。
ここは国上山の中腹にある真言宗の寺院で県内最古の名刹とされている。
境内にある本堂の紅葉はまだ青っぽかった。今日あたりが見頃だと思われる。
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Canon EOS 7D  EF-S10-22mmF3.5-4.5 USM
F16  1/30秒 ISO400 9:19  曇り時々晴れ
撮影日 2011.11.12 撮影地 燕市国上・国上寺

良寛像と紅葉を撮って見た。
太陽は左上から木漏れ陽となっている。
良寛像を明るくすれば背後の紅葉は露出オーバーになる。逆に紅葉に露出を合わせれば良寛像がアンダーで暗くなってしまう。
そこで良寛像の顔に向けて外部ストロボを日中シンクロさせた。
良寛像が立体的に見えて紅葉も綺麗に撮れている。
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Canon EOS 7D  EF-S17-55mmF2.8IS USM
F16 1/8秒  ISO500 内蔵ストロボ調光補正-1+ストロボ580EXⅡ 14:11  曇り時々晴れ
撮影日 2011.11.12 撮影地 燕市国上・国上寺

本堂内から弘法大師像を安置している大師堂を撮る。
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Canon EOS 7D  EF-S17-55mmF2.8IS USM
F16 1/13秒  ISO500 14:23  曇り時々晴れ
撮影日 2011.11.12 撮影地 燕市国上・国上寺

国上寺では童水子地蔵尊をお祀りして水子供養をしています。
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Canon EOS 7D  EF-S17-55mmF2.8IS USM
F11 1/80秒  ISO500 15:17  曇り時々晴れ
撮影日 2011.11.12 撮影地 燕市国上・国上寺

大師堂に西陽が当たって綺麗だった。
紅葉が今ひとつ冴えなかったがこの写真を撮れただけでも満足して帰ろう。
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Canon EOS 7D  EF-S17-55mmF2.8IS USM
F11 1/250秒  ISO400 15:41  曇り時々晴れ
撮影日 2011.11.12 撮影地 燕市国上・国上寺

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by chonger48 | 2011-11-19 19:43 | 歴史

燕喜館

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明治から昭和にかけて港町新潟の商家、三代目斉藤喜十郎氏の邸宅「燕喜館」を撮影しました。
宴を催し、楽しみ喜ぶという意味からこの名前を引き継ぎ、平成9年に東堀通7番町から白山公園内に移築されました。
文化のかおり漂う建物は往年をしのばせる風格があります。

外塀から見えるソメイヨシノは、たくさんの通行客が足を止めてカメラを向けていました。
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Canon EOS 7D  SIGMA18-250mmF3.5-6.3 DC OS HSM
F11  1/800秒 ISO640 16:05 晴れ 
撮影日 2011.4.17 撮影地 新潟市中央区・燕喜館

こちらが入口です。
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Canon EOS 7D  SIGMA18-250mmF3.5-6.3 DC OS HSM
F11  1/320秒 ISO640 16:02 晴れ 
撮影日 2011.4.17 撮影地 新潟市中央区・燕喜館

現在は使用していませんが、前座敷と奥座敷への正式な玄関の間です。「燕喜館」の扁額が掛けられています。
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Canon EOS 7D  SIGMA18-250mmF3.5-6.3 DC OS HSM
F11  1/60秒 ISO1000 15:36 晴れ 
撮影日 2011.4.17 撮影地 新潟市中央区・燕喜館

洋風のシャンデリアが前座敷の大広間を飾っています。
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Canon EOS 7D  SIGMA18-250mmF3.5-6.3 DC OS HSM
F8.0  1/50秒 ISO1600 15:41 晴れ 
撮影日 2011.4.17 撮影地 新潟市中央区・燕喜館

入側にはいる光がとっても綺麗でした。
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Canon EOS 7D  SIGMA18-250mmF3.5-6.3 DC OS HSM
F11  1/160秒 ISO640 15:43 晴れ 
撮影日 2011.4.17 撮影地 新潟市中央区・燕喜館




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by chonger48 | 2011-04-27 21:49 | 歴史

将軍杉

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鐘鬼様まつりも終わり、次の目的地に移動しようとしたらキャノンクラブのT君がまだ残っていた。
「どうしたんだ、みんなといしょに帰らなかったのか?」「いえ、今日は定員オーバーのため一人で電車に乗って来ました」
「それは大変だ。これから撮影に行くので俺の助手をしてくれたら家まで送るよ」
「いいんですか?」「どうせ帰りは同じ町だし、暇なら付き合ってくれ」「じゃあ、お願いします」

そんな訳で将軍杉の撮影に付き合ってもらった。
しかし現場は落雪や倒木の危険があるため歩道が立ち入り禁止となっていた。
さらに将軍杉の説明板もご覧の様に単管パイプに被われていてものものしいい雰囲気となっている。
これでは雪解け後に再撮影しなければいけないなあ。
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Canon EOS 7D  EF-S10-22mmF3.5-4.5 USM
F11  1/13秒 ISO500 16:03  曇り
撮影日 2011.2.11 撮影地 阿賀町(三川地区)岩谷 ・将軍杉

こちらは平等寺薬師堂(びょうどうじやくしどう)だ。
室町時代の建造物で木造建築としては県内最古のもののひとつである。
堂は正面三間、側面四間の単層茅葺き寄棟造りで、堂内の柱や壁板のところどころに、戦国から江戸時代にかけての落書が残されており、大正12年3月28日国有形文化財となっている。
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Canon EOS 7D  EF-S10-22mmF3.5-4.5 USM
F13  1/13秒 ISO500 16:41  曇り
撮影日 2011.2.11 撮影地 阿賀町(三川地区)岩谷 ・平等寺薬師堂(びょうどうじやくしどう)

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Canon EOS 7D  EF-S10-22mmF3.5-4.5 USM
F16  1/4秒 ISO500 16:45  曇り
撮影日 2011.2.11 撮影地 阿賀町(三川地区)岩谷 ・平等寺薬師堂(びょうどうじやくしどう)

辺りも暗くなってきた。そろそろ帰ろう。お疲れ様でした。
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Canon EOS 7D 70-200mmF2.8L IS USM
F5.6  1/6秒 ISO500 17:14  曇り
撮影日 2011.2.11 撮影地 阿賀町(三川地区)岩谷 ・平等寺薬師堂(びょうどうじやくしどう)


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by chonger48 | 2011-02-22 19:54 | 歴史

最後の忠臣蔵

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元禄15年12月14日(西暦1703年1月30日)は、元播州赤穂藩の大石内蔵助良雄以下赤穂浪士47名(四十七士)が主君浅野内匠頭長矩の仇討ちの為、高家旗本の吉良上野介義央の屋敷に討ち入りした日である。

12月18日(土)から映画「最後の忠臣蔵」が日米同時公開される。
大石から隠し子の行く末を託され、討ち入り前日に姿を消した瀬尾孫左衛門と討ち入り後、その史実を伝え、四十七士の遺族を援助するよう命を受けた寺坂吉右衛門。
この二人の生き様を描いた映画である。

また12月25日(土)夜9時からテレビ朝日でドラマスペシャル「 忠臣蔵 ~その男、大石内蔵助」が放送される。
田村正和がどんな大石 内蔵助を演じるか楽しみだ。
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CONTAX T2 ゾナーT*38mmF2.8 
F8.0  オート FUJICOLOR G-400
撮影日 1997.5.上旬 撮影地 兵庫県赤穂市・播州赤穂城

寛永18年(1641年)9月2日、吉良上野介義央(きら-こうずけのすけ-よしひさ)は高家旗本吉良義(4,200石)と酒井忠勝の姪(忠吉の娘)の嫡男として、江戸鍛冶橋の吉良邸にて生まれる。
万治元年(1658年)4月、出羽米沢藩主上杉綱勝の妹・三姫(後の富子)と結婚。
寛文4年(1664年)閏5月、米沢藩3代藩主上杉綱勝が嗣子の無いままに急死。
高家吉良義央と富子(上杉綱勝の妹に当たる)との間に生まれたばかりの子、三之助を養子(のち上杉綱憲)とした結果、上杉家は存続を許された。
寛文8年(1668年)5月、父義冬の死去により28歳で家督を相続する。
元禄3年(1690年)4月、吉良家では義央の次男吉良三郎が嫡男となっていたが、貞享2年(1685年)に夭折「ようせつ」(・・・若くして亡くなること)し、他に男子がなかったために吉良義央の嫡男であった上杉綱憲が幕府とも協議の末、次男の春千代を実家吉良家への養子とし、吉良左兵衛義周と改名させて江戸鍛冶橋の吉良邸宅へ迎え入れた。
元禄15年12月14日(1703年1月30日)、吉良上野介義央は赤穂浪士に討ち入られ、炭小屋に隠れていた所を見つけられ、間十次郎光興(はざまじゅうじろうみつおき)に一番槍をつけられ、武林唯七隆重(たけばやしただしちたかしげ)に切られて62年の生涯を終える。
吉良家の領地であった愛知県幡豆郡吉良町では吉良上野介義央を明君として呼び慣わしている。

10年前に吉良邸跡に行った時、近所のおばあさんが討ち入りで亡くなった吉良様と家臣達を毎日供養していますと話しかけてくれた。
吉良家家臣二十士の碑には小林平八郎、清水一学らの名前が刻まれている。

討ち入り当日の吉良家には100人程度の家臣がいた。
しかし浪士たちが長屋の扉を鎹(かすがい)で打ち付けて、閉じ込めてしまい、大半が切り合いに参加できなかった。
吉良方の死者は16名、赤穂浪士に死者は無かった。
上杉家家臣の山吉新八郎は吉良家の付け人となり、討ち入りの時はもっとも活躍した武士であると云われている。
1989年のテレビ東京が年末時代劇で放送した『大忠臣蔵』では村上弘明が、準主役級の扱いで好演し、壮絶な討ち死にを遂げる。
しかし史実では一命を取り留め、吉良家が改易「かいえき」(・・・武士の身分を剥奪して所領と城・屋敷を没収すること)され、養子に入っていた吉良義周が諏訪藩(現長野県諏訪市)お預かりとなり、いっしょに高島城へ入った。
宝永3年(1706年)1月に義周が死んだ後は、米沢へ戻り、上杉家に仕官した。
宝暦2年(1752年)2月に隠居する。
宝暦3年(1753年)7月28日に死去。享年83。
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CanonEOS-1N EF28-70mmF2.8L USM  
F11  オート  -1/3補正  TREBI100
撮影日 2000.9.17 撮影地 東京都墨田区両国・吉良邸

忠臣蔵はテレビや映画などで何度も作品化されている。
人形浄瑠璃や歌舞伎の代表的な演目である仮名手本忠臣蔵には泣かせる名場面が数多くある。
テレビや映画では演出の都合上、そうした史実と違った名場面を入れたり、入れなかったりする時がある。
私にはどうしても泣かせる名場面が入ってないとその作品を評価できない。

「忠臣蔵で必ず演出してもらいたい名場面」
①松の廊下で浅野内匠頭が吉良上野介に刃傷に及んだ時、脇坂淡路守が急いで駆けつけ、廊下で吉良にわざとぶつかって「我が家の紋所を不浄の血でけがすとはなにごとぞっ!無礼者!」などと言って扇子で吉良をぶったシーン。萬屋錦之介さんの脇坂淡路守がかっこいい。

②『仮名手本忠臣蔵』のおかる・勘平の絡み
早野勘平は主人の内匠頭が刃傷沙汰の時に腰元のおかると逢い引きを楽しんでいた。その責任を感じて切腹をしようとするも止められ、二人は駆け落ちする。
勘平はおかるの実家(京・山崎)で猟師となり、夫婦になる。
仇討ちに加わりたがっている勘平のために、おかるの父が娘を京の遊郭に売り飛ばす。
その前金五十両を手にして自宅に帰る途中、おかるの父は山賊(盗賊)に殺されてしまう。
たまたま勘平はその付近で猟をしており、盗賊を猪(しし)と間違えて誤射し、これも殺してしまう。
勘平は盗賊が大金の入った財布を持っていることに気づき、横領してしまう。
おかるは祇園の女将に売られて行き、勘平も仇討のため身を売った女房の心遣いに感涙する。
そこへおかるの父の死骸が運ばれ大騒ぎとなる。
持っていた財布から、射殺したのは勘平ではないかとおかる兄妹の母に疑われてしまう。
勘平も夜の闇の中で何者か知らないで取った財布だけに、自身が義父を殺害したものと思い込んで動転してしまう。そして訪れた同志からも「駆け落ち者で舅(しゅうと)を殺し取ったる金など亡君の御用金となるべきか」と責め立てられ、切羽詰った勘平は切腹する。
やがて勘平の疑いは晴れ、知らぬうちに養父の仇討をしたことが分かる。
同志の義士は勘平の財布を形見にして討ち入りに臨む創作物語のシーン。
この早野勘平のモデルとなったのは萱野三平である。
主君浅野内匠頭長矩が江戸城松之大廊下で吉良義央に刃傷に及んだ後、早水満尭と早駕籠で事件の第一報を赤穂へもたらした。江戸から赤穂まで普通の旅人なら17日、飛脚で8日かかるところを僅か4日で走破している。
赤穂城開城後、郷里の摂津国萱野村(今の箕面市萱野)へ戻った。父から大島家へ仕官するよう強く勧められる。大島家は吉良家との繋がりの深い家柄であり、同志との義盟、旧主への忠義と父への孝行との間で板ばさみになった三平は、討ち入り成功の11ヶ月前、元禄15年(1702年)1月14日、主君の月命日を自分の最期の日と決め、京都の山科の大石良雄に遺書を書き、その中で同志と共に約束をはたせぬ罪を詫び、かつ同志の奮起を祈る心を述べ、切腹した。享年28。

③元禄15年(1702年)4月、赤穂浪士四十七士の一人である神崎与五郎は、大石内蔵助の内命を帯びて、京から江戸へ向かった。
箱根の山の茶屋で休んでいるところに、丑五郎という馬子が「馬に乗れ」とからんできたが、神崎が断っていると、腰抜け侍と見て言いがかりをつけられる。
さらに丑五郎が「詫び証文」を書かせたり、股をくぐらせたりと無理難題をいってきた。
神崎は討ち入りという大事を前に、我慢を重ねて恥辱を受けたまま去る。
「成る堪忍は誰もする、成らぬ堪忍するが堪忍」(・・・尋常の我慢なら誰でもできる。耐え難きを耐え、しのび難きをしのぶのがほんとうの「堪忍」であり、そこに価値がある)という意味である。
その後、赤穂浪士の討ち入りでその中に神崎与五郎がいたことを知った丑五郎は己を恥じて出家の上、神崎を弔ったという講談や浪曲でお馴染みのシーン。

④赤穂浪士討ち入りの外伝的な創作と思うが、赤穂藩の出入り業者を務めていた大坂商人の天野屋利兵衛が大石内蔵助に槍などの武器を調達する。
大量の武器の注文を不審に思った鍛冶屋が奉行所に届け出たため、利兵衛は捕らえられ激しい拷問を受ける。しかし「天野屋利兵衛は男でござる!」と啖呵を切って口を割らなかったシーン。
また赤穂浪士の前原伊助が吉良邸裏門近くで「米屋五兵衛」と称して店を開業しながら吉良家の動向をさぐっていた。しかし清水一学に察知されて拷問を受けるシーンもある。これも特に史実に基づく確証がある話ではない。

⑤大石内蔵助は元禄15年7月28日、京都円山で同士19名を集め、仇討ち決行の表明をする。
そして山科の屋敷を引き払い江戸への東下りが始まった。
大石は天野屋が調達した武器を、隠密にて輸送しなければならず、「日野家の名代で垣見五郎兵衛という人物が禁裏御用のために京都から江戸へ下る」という情報を元に、その男になりすまして東海道を下ったが、運悪く神奈川宿で本物の垣見五郎兵衛と出くわした。
本物の垣見五郎兵衛は「自分の名を語る不届きなやつ」と部屋に踏み込むが迎えた内蔵助も「我こそが垣見五郎兵衛」とゆずらない。
本物の垣見は「ならば日野家御用であることを証す道中手形を見せてみよ」と詰め寄ると、内蔵助は白紙の目録を見せる。
驚いた垣見はそこで風呂敷包みに目をやると浅野家の家紋(丸に違い鷹の羽)に気がつき、大石内蔵助に自分の道中手形を渡し「偽者の手形なれど、いかようにもご処分下され」と引き上げるシーン。
演出によっては垣見五郎兵衛が立花左近という名前の時もある。
これらの配役にはいつも大物俳優が当てられる。

⑥忠臣蔵で私が1番好きな場面は南部坂 雪の別れのシーンである。
内匠頭の未亡人、阿久利は出家して瑤泉院と名のり、南部坂にある生家の三次浅野土佐守の下屋敷で隠遁生活をしていた。
そこえ討ち入り前夜、大石内蔵助が別れの挨拶にやって来る。
遥泉院は内蔵助が討ち入りする報告に来たものと思い、喜んで歓迎するが、内蔵助は屋敷内の侍女に吉良の間者がいる事を悟り「討ち入りなどとは滅相もございません。拙者は他藩に仕官することになったので、亡き殿にお別れの挨拶にまかりこしました。」と嘘をついた。
遥泉院は「不忠の者に殿の焼香などはさせられぬ」と憤慨し、内蔵助を追い返してしまう。
その後、内蔵助が残していった袱紗包みを吉良の間者が盗もうとする所を戸田局に見つかり取り押さえられる。
それが討ち入りの血判状だった事がわかり、遥泉院は自分の過ちを泣いて悔やんだ。
内蔵助が蛇の目傘をさし、雪の中に消えて行くシーンは男の浪漫を感じさせてくれる。

⑦俵星玄蕃は三波春夫先生の長編歌謡浪曲でおなじみである。
杉野十平次は「夜泣き蕎麦屋の十助」として吉良邸の動向を探っていた。やがて俵星玄蕃という客と親しくなり、米俵も突き上げるという槍の極意を教えてもらう。
討ち入りの日、玄蕃は助太刀しようと吉良邸へ向かったが大石に同道を断られた。
玄蕃はせめて赤穂浪士たちが本懐を遂げるまで、両国橋で上杉の追っ手を絶とうと仁王立ちになるシーン。
俵星玄蕃役には西田敏行さんが良いと思っている。

⑧吉良邸の隣に住んでいた旗本寄合の土屋主税は赤穂浪士に力を貸したことで知られる。
討ち入りを知ると吉良邸との塀ぎわに高提灯を灯し、「もし、塀を乗り越えて当家に逃げ込む者がいたら追い返えせ」と家臣に命じた。
武士の情けを感じるシーンである。
土屋主税を演じる役者は、この1シーンだけに特別出演できる超大物でなくてはいけない。
私が監督なら杉良太郎さんを起用してみたい。

⑨赤埴源蔵、徳利の別れも演出には欠かせない。
討ち入り直前にこれまで迷惑をかけた兄に今生の別れを告げようと兄の家を訪れた。
しかし兄は留守で、義姉も金の無心にでも来たのだろうと仮病をつかって会おうとしない。
源蔵は兄の羽織を前に酒をつぎ、「今日までご迷惑おかけしてきましたが、このたび遠国へ旅立つこととなりました。兄上と姉上にもう一度お会いしたかったが、これにてお別れ申し上げる」と涙を流しながら帰って行くシーンである。

⑩忠臣蔵を演出する上で脱盟者をどう描くかで内容の濃さがわかる。
橋本平左衛門は遊女と心中し、小山田庄左衛門は浪士の金品を盗んで脱走。急進派の 高田郡兵衛は養子になり脱盟した。
私が役者なら毛利小平太という男を演じたい。
大納戸役20石5人扶持で、吉良邸の探索などに活躍したが討ち入りの直前になって脱落し、最後の脱盟者となった。
逐電の理由として、小平太の兄が大垣新田藩主戸田氏成(大垣藩主戸田氏定の弟)に仕えていてその兄に説得されて脱盟した説が残っている。
小説や映画では色々な創作がなされているが、私が演出家なら肺病を患い、雪の中を這いつくばりながら吉良邸に向かい、塀の外から勝ちどきの声を聞きながら血を吐き、息果てるシーンを使いたい。

そのほか忠臣蔵には浅野内匠頭が切腹する前に、幕府目付役の多門伝八郎が主の暇乞いをする片岡源五右衛門に庭先でそっと見送らせてやる田村邸の別れの場面があり、内匠頭が家臣に胸のうちを「すまぬ」と告げると目付け役の多門は「しかと受け賜った」と答えるシーン。
また岡野金衛門が吉良邸の絵図面を入手するために大工の娘を騙すシーン。
大高源五と宝井其角が討ち入り前に橋の上で俳句を交わすシーンなど、忠臣蔵には敵討ちに関する様々な物語群を示す本伝、討ち入りに参加した赤穂浪人に関する銘々伝、それ以外に係わる外伝と分けてまだまだ見たいシーンが他にもたくさんある。
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CanonEOS30D EF16-35mmF2.8L USM
F11 1/60秒  ISO400 12:10 曇り
撮影日 2006.12.20 撮影地 東京都港区赤坂2丁目22・南部坂

14日は新発田藩ゆかりの堀部安兵衛をしのぶ「義士祭」が、安兵衛の祖父の菩提寺である長徳寺で行われ、四十七士に扮し小学生の少年少女剣士たちが市内をパレードした。

堀部安兵衛武庸(ほりべ やすべえたけつね)は、寛文10年(1670年)新発田藩溝口家家臣の中山弥次右衛門の長男として生まれた。
安兵衛が13歳の時に、父がお役目中に櫓失火の責任を負って浪人となる。
ほどなくして父が死去すると安兵衛は孤児(母は出産した直後に亡くなっている。)となり、19歳で親戚を頼って江戸へ出る。
堀内道場に入門すると、剣術で頭角をあらわし免許皆伝となって四天王と呼ばれる。
収入も安定し20歳で一戸建ての自宅を持った。

そんな頃、同門の菅野六郎左衛門(伊予国西条藩松平家家臣)と意気投合し、叔父・甥の契りを結んだ。
その菅野がある時、村上庄左衛門と年始振舞の酒の席で口論となってしまう。
講談や芝居では、藩主の前で御前試合をして菅野が辛くも勝ったのだが、村上はその事を遺恨に思い「今度は命を賭けて決闘をしたい」と申し入れるという設定もある。
村上は果たし状を当日の朝に投げ文し、仲間数人で菅野をだまし討ちしようと考えた。
これを見た菅野は「決闘に遅れては武士の恥」とすぐに行こうとするが、別れを告げるため中山安兵衛の家に寄った。
しかし安兵衛は前の晩から飲んだくれていて、留守だったのである。
仕方なく菅野はその場で文を書いて戦いの場へ向かった。
日が高くなってからやっと家に戻った安兵衛は、菅野の文を読み「しまった!」と絶句する。
安兵衛は急いで高田馬場まで走ったのである。
果たし合いはもう始まっていた。
見れば菅野ひとりに対して、向こうは何人もいる。
これはいかんと安兵衛はただちに助太刀に入り、相手方3人を斬り倒した。
これが元禄7年2月11日(1694年3月6日)に起った「堀部安兵衛・高田馬場の決闘」である。
逸話では江戸市中の瓦版で「18人斬り」と紹介され、さまざまな劇化がなされた。
この決闘を見ていた赤穂浅野家家臣の堀部弥兵衛が安兵衛に養子縁組を望んだ。
安兵衛は中山家を潰すわけにはいかないと断っていたが、「中山姓」のままでも良いからという弥兵衛の熱意に折れ、元禄7年7月7日(1694年8月27日)堀部家の婿養子になった。

浅野家家臣となった安兵衛は、元禄10年(1697年)に弥兵衛から家督相続し、中山姓から堀部姓に変えている。
元禄14年3月14日(1701年4月21日)、主君浅野内匠頭長矩が江戸城松之大廊下で高家吉良上野介義央に刃傷に及び、内匠頭は即日切腹、赤穂浅野家は断絶と決まった。
安兵衛は江戸詰の藩士とともに赤穂へ赴き、筆頭家老大石内蔵助と面会し、篭城さもなくば吉良への仇討を主張したが、弟の浅野大学長広(あさのだいがくながひろ)による浅野家再興を優先することを諭されて、赤穂城明け渡しを見届けた後、江戸に戻った。

江戸急進派のリーダー格となった安兵衛は、京都山科に隠棲し一行に決起しない大石に対して江戸下向するよう書状を送り続けた。
しかし大石は、主君浅野内匠頭長矩の一周忌が過ぎても決起はおろか江戸下向さえしようとしなかった。
祇園で遊興を繰り返し、世間は赤穂の腰抜け侍と噂をたてる。
がまんも限界になった安兵衛は大石と面会するために元禄15年6月29日(1702年7月23日)に京都に入った。
事と次第によっては大石を切り捨てるつもりだったともいう。
元禄15年7月18日(1702年8月11日)、浅野大学長広の浅野宗家への永預けが決まり、浅野家再興が絶望的となった。
元禄15年7月28日(1702年8月21日)、大石は京都で安兵衛も招き、円山会議を開いてついに仇討ちを決定した。
安兵衛はこの決定を江戸の同志たちに伝えるべく、京都を出た。

そして元禄15年12月14日(1703年1月30日)、赤穂浪士47士は本所松阪町の吉良上野介義央の屋敷へ討ち入った。
(実際に襲撃したのは現在の時刻で翌15日(31日)に入っての未明午前4時頃であった)
浪士一番の剣客とされる堀部安兵衛は裏門から突入し、大太刀を持って奮戦した。
テレビや映画では清水一学と対決するシーンが見せ場である。
赤穂浪士は1時間あまりの戦いの末に吉良上野介義央を討ち取り、その本懐を遂げた。

討ち入り後、赤穂浪士たちは四つの大名家の屋敷にお預けとなり、安兵衛は大石内蔵助良雄の嫡男大石主税良金らとともに松平定直の屋敷へ預けられ、元禄16年2月4日(1703年3月20日)、同屋敷にて切腹した。
堀部安兵衛・享年34。 辞世の句・梓弓 ためしにも引け 武士の 道は迷はぬ 跡と思はば
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Canon EOS 7D SIGMA18-250mmF3.5-6.3 DC OS HSM
F8.0  1/250秒 ISO400 11:50 曇りのち雨 
撮影日 2010.4.20 撮影地 新発田市・堀部安兵衛武庸

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by chonger48 | 2010-12-14 20:23 | 歴史

戦国EXPO

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4月11日から南魚沼市で開かれていた「戦国EXPO」が先月28日で閉幕した。
昨年のNHK大河ドラマ「天地人」の影響もあり、戦国武将ブームにあやかって、累計来場者数は5万8352人を記録した。
私もその中の1人である。
このようなイベントは、今後もたくさんやってもらいたいものだ。
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Canon EOS 50D  SIGMA18-250mmF3.5-6.3 DC OS HSM
F8.0 1/20秒  ISO3200 17:18 曇りのち雨
撮影日 2010.9.16 撮影地 南魚沼市・戦国EXPO

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Canon EOS 50D  SIGMA18-250mmF3.5-6.3 DC OS HSM
F8.0 1/20秒  ISO3200 17:19 曇りのち雨
撮影日 2010.9.16 撮影地 南魚沼市・戦国EXPO

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直江兼続フィギュア
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by chonger48 | 2010-12-11 23:22 | 歴史

真珠湾攻撃

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1941年(昭和16年)12月8日未明(ハワイ時間12月7日)、日本はハワイオアフ島真珠湾にあったアメリカ海軍の太平洋艦隊と基地に対して航空爆撃を開始した。
終戦の日は知っているが、若い人たちは太平洋戦争が始まった日を案外知らないのではないだろうか?

新潟県長岡市出身で連合艦隊司令長官だった山本五十六は最後まで日米開戦に反対していた。
しかしその願いもむなしく、日本は開戦を決定した。
山本は短期決着のために第11航空艦隊参謀長であった大西少将に「真珠湾を航空攻撃できないか」と作戦立案を依頼し、1941年(昭和16年)1月7日及川古志郎海相に真珠湾作戦を提出する。

真珠湾の平均水深は12メートルと浅瀬のため、どうやって魚雷攻撃を行うか検討され、苦心の末に改良した結果、ジャイロを用いて空中姿勢を安定させ、沈度を大幅に抑えることに成功した。
また鹿児島の錦江湾を中心に、超低空飛行訓練を実施し、爆撃を水深10メートル以下に引き下げる技術を習得した。

かくして日本海軍空母機動部隊は11月26日ハワイへ向けて出港した。
12月2日、大本営より機動部隊に対して「ニイタカヤマノボレ一二〇八」の暗号電文が発信された。ニイタカヤマ(新高山)は当時日本領であった台湾の山の名(現・玉山)で、一二〇八とは「日本時間12月8日午前零時を期して戦闘行動を開始せよ」の符丁であった。
12月8日午前1時30分(日本時間)ハワイ近海に接近した日本海軍機動部隊から、第一波空中攻撃隊として183機が発進。午前2時45分には第二波空中攻撃隊として171機が発進した。

ハワイは現地時間12月7日(日)の朝だった。
7時49分(日本時間8日午前3時19分)、第一波空中攻撃隊は真珠湾上空に到達し、全軍突撃を開始した。
7時53分(同3時23分)、旗艦赤城に「トラ・トラ・トラ」を打電した。これは「ワレ奇襲ニ成功セリ」を意味する符丁である。
アメリカは戦艦8隻などが爆撃され戦死者2,345人を数えた。
日本は特殊潜航艇の未帰還5隻、戦死者9名。航空機の未帰還が29機、戦死者55名だった。
しかし真珠湾には攻撃目標にしていた主力空母が停泊しておらず、それを打ちもらした事は日本にとっては誤算だった。
アメリカは圧倒的な国力で戦艦を再生し、1942年(昭和17年)6月5日(アメリカ標準時では6月4日)から7日にかけて行われたミッドウェー海戦では、日本の主力空母4隻とその艦載機を一挙に喪失させ、太平洋戦争の形勢は逆転したのである。

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CONTAX T3 ゾナーT*35mmF2.8 
F5.6 オート TREBI400
撮影日 2002.5.6 撮影地 長岡市坂ノ上町3丁目・山本五十六生家跡

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CanonEOS10D  EF16-35mmF2.8L USM  
F8.0  1/400秒 ISO400 9:37 晴れ
撮影日 2005.6.25 撮影地 東京都千代田区九段・遊就館

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by chonger48 | 2010-12-08 23:45 | 歴史